母の死を通して学ぶこと「肉体だけが真実ではない」

母が温泉の中でパッタリと亡くなって、
意外に呆気なくこの世を去ってしまいました。

不思議なもので、
亡くなる前の母は父と花見をして、
温泉にはいって亡くなったので、
私はそんなに哀しい感じもなくスッと母の死を受け入れられました。

父は何かと分骨にこだわっていましたが、
色々と面倒なことがあり、分骨ができないことを知り、
納骨のときは分骨のブも言わなくなりました。

父と話すと、
私と間逆で驚くことばかりです。

例えば、
父が分骨にこだわったのは、
本州に母が納骨されると、
母の兄弟や姉妹が墓まいりにくることが出来ないので
「かわいそう」だと言うのです。

私は母はもう亡くなって、
魂は天国に行っているんで、
墓まいりに意味を見出せません。

生前に母も言っていたのが、
葬式などは母にとっては意味がなく、
墓などもあまり興味がないと。

父が言うには、
49日までは母は家にいるとのこと。
49日以降にあの世にいくとのことで、
父はあまり家をあけると「かわいそう」と言って
出かけないのです。

あの世に行くのに、
49日かかる人もいるかもしれませんが、
私が思うに母はすでにココにはおらず、
あの世で楽しんでいる感じがしてならず、
父がこだわる49日にもあまり意味を見いだせずにいました。

父方の姉妹には、
兄弟や両親と一緒にいたいから、
父方の方に分骨してほしいという叔母もいます。

叔父は墓をつぐ者もいないから、
死んだらマンションを売却して、
永代供養をするという話しをするのです。

で、父や叔父、おばが「お前も分骨で入るだろ?」と聞くので、
「私は生きているうちに楽しみたいから、葬式もいらないし、
骨を海にまくか、自然のあるところにまくからいい、最終的にはまかなくてもいいんだ」
というと叔父や叔母は黙ってしまいました。

母は父方の仏教系のお寺に納骨されましたが、
本来、仏教というものは「執着」を手放すことを
学ぶはずなのに、
なぜに肉体の残り(骨や墓)にそんなにも愛着を感じるのか?
と不思議でならないのです。

私が凄く世間離れしているんだと思うのですが、
墓とか、お葬式とか永代供養とかそんなに大切なことなのでしょうか?

私が思うに、

お墓まいりとか永代供養とか戒名とかブッタの教えでは無いはずです。

ただ今の時代、
お布施をする人も少なくなっているので、
そうしないと僧侶がもたないとも聞きます。

祖先から学ぶこと、
祖先がきりひらいてくれたことに感謝することは凄く大切ですよね。

ただ、
墓や儀式の行為自体に執着してしまっては、
肉体が人間である、
肉体だけが真実であるという誤解をしてしまうのではないか?
と思ってしまったり。

母の魂は墓にだけあるわけでもなく、
位牌にあるわけでもないと思います。

私が感じれば、 
母の魂はすぐ側にいるから。

ただ私と間逆な父をみて、
父は母の死をすごく哀しんでいることが伝わり、
父が墓参りにこだわるのは、
母に何かしてあげられなかったという
想いがあるのかな?と思いはじめ、

そこで
分骨も含めて、
お墓まいりのことなどは、
父の母への愛なんだろうな~とも受け止めて、
出来るだけ父が納得する形で出来ればとも思いました。

母の死を通して

私にとっては、
肉体よりも魂の方が真実なんだとさらに感じました。

そして私たちは肉体を通して、
この世界で学んでいるので、
肉体にも感謝をし、大切にするわけなのですが。
私にとって死んだあとの
墓や葬式など全く興味がないことにも気づきました。

お葬式は生きている人のために、
喪失を癒すために必要な行為ことなのかもしれないなと思いました。

父が納得してくれて良かったです。

私は母の死を通して、
自分の生き方がさらにクリアになったような気がします。

色んな考え方があり色んな選択がありますね。

Please follow and like us:

Enjoy this blog? Please spread the word :)